シチューを一緒に食している間、根津さんは静かだった。味が遠くないか、お塩を少し足したが心配でテーブルの上に塩を置いていたが、根津さんが塩を足すことはなかった。パンでお皿を綺麗にして完食すると、「一番好きな味でした」と言ってくれた。嬉しかった。根津さんが食器をキッチンに持っていき食器を洗うと言い出したので、丁重にお断りした。
「大丈夫です、二人分も一人分も変わらないので」
「すみません、突然来てお夕飯までご馳走になって、食器まで洗って頂いて」
「いいえ、来て頂けて嬉しかったです。退屈な週末が一日、素敵な日に変わりました。有難う御座います」
「こちらこそ、本当に有難う御座います。やっぱり、ここに越してきて良かったです」
「そう言って頂けると嬉しいです。ここら辺のことは熟知しているので、何でもわからないこと聞いて下さいね」
「有難う御座います、頼もしいです。じゃ、帰ります」
「お気をつけて、外は真っ暗ですから。電灯はお持ちですか?」
「はい、ポケットに常備してます」
根津さんを玄関まで見送ると、ブーツを履き、ジャケットを羽織った根津さんが振り返り聞いた。
「あの、また来ても大丈夫ですか?」
「勿論。いつでもどうぞ」
「良かった。有難う御座います。おやすみなさい」
「おやすみなさい」
玄関を閉めると、扉のノブが氷のように凍てついていた。瞬時に手を離すと、真後ろにいつの間にかに来ていたミッドナイトが、私の足元に珍しく戯れついて来て、喉をゴロゴロとご機嫌に鳴らした。今日は、思ったよりもとっても良い1日だった。朝の予感通りの良い一日。物語の主人公ではないけれど、それ以上に今日を生きた感覚を得られる一日。静かで優しい一日。そう感じたのは、この街で新たな誰かに出会うことなど殆どないから、越して来たばかりの根津さんと時間を過ごした事で自分の生活に新しい風が吹いたお陰だ。感謝の気持ちを胸に抱き、読みかけの革張りの本をロッキングチェアに迎えにいくと、ふと外のスノウマンが気になり、本は素通りして窓の側に立った。外の暗闇で何も見えないと思ったが、スノウマンの頭の上に乗せたウィッグが少しだけ光って見えた。ちゃんと、私を見守ってくれている。今度根津さんが来た時には、あのスノウマンを見せてあげようと思い、時間を忘れる程、そのスノウマンを眺めた。
その晩、シャワーを浴びる時に一度取ったネックレスは、何だか良いことを家の中に運んでくれるような気がして、また胸元に戻してそのまま寝た。寒い冬に光を、純白の世界の眩しさに潰されない光を、このネックレスは運んでくれる。そんな希望を胸に抱きながら、瞼を閉じ、庭に立つスノウマンと、一緒に食事を取った新しい隣人の声を頭の中に浮かべ眠りに落ちた。
小さな世界で良い。優しい世界なら、何処でもそこには大事な何かがある。根津さんが食事中に口にした言葉が、夢に落ちる前にリフレインされた。
それから根津さんは週末、必ず決まった時間に我が家を訪問するようになった。必ず手には自分で焼いたと言うパンを片手に、雪かきをしながら道を作りながら私の家まで歩いて来た。根津さんが来る日は、必ず大雪だった。今年は格別、毎週末のように積雪量が多く、ニュースでも買い物や車の手入れなど注意喚起されるほどだった。それでも、私の生活は、この小さな世界は、格別に温かくなっていた。他愛もない話を何時間もして、一緒に夕飯を食べる。ただ、それだけの事だが、仕事で1週間が過ぎた後の週末のご褒美のように、その日をいつの間にか待ち遠しく思うようになっていた。約束をしたわけではない。それでも約束をしたかのように、根津さんは決まった時間に我が家のベルを鳴らした。
「今日は。今日は珍しくクロワッサン焼いてみました。おやつにしては重いですが、食べませんか?」
「わぁ!自分でクロワッサンなんて焼けるんですね?凄い!今珈琲淹れますね。入って下さい」
「有難う御座います。すみません、いつも玄関濡らしてしまって」
「いいえ、その為の玄関ですから」
寒い地域、雪を纏って家に入るのを見越した作りで、玄関は二重になっている。外のドアと内のドアの間にコートを掛け、雪を落とすと中の椅子で腰掛けブーツを脱ぐ。冷えた足を冷やすため、玄関の椅子の前にはヒーターがあったが、最近調子が悪く週末は余り温まらなかった。それを根津さんに謝罪すると、根津さんは笑って言った。
「汗っかきだから、ヒーターは控えめの方が丁度良いです」
「あら、でも暖炉はおつけになるんですよね?」
「あはは、あの家の中に一つだけある暖炉、それだけつけてて、セントラルヒーティングは一切使ってないんです」
「え!それでよく風邪引きませんね?」
「そうですね、脂肪ですかね?」
洋服で体型などは全く分からないが、手の感じからしてとても脂肪と呼べるものがあるような気がしないので怪訝な顔を根津さんに向けると、根津さんが「冗談です、単なる健康体の暑がりです」と笑った。
根津さんから色々な国の話を聞くのが楽しみだったが、急に根津さんの今の家のことが聞きたくなった。あの家には一度だけ昔、人が住んでいた頃に遊びに行ったことがあった。その時の記憶を頼りに家の中のことを聞くと、根津さんは淹れたばかりの珈琲を啜りながら静かに優しい口調で答えた。
「凄い記憶力ですね。そのままですよ。玄関入ってすぐに左手に階段があって、右手に書斎があって、奥にリビングダイニングがあって、その左手に小さなキッチンがあります。唯一変わったのは、パントリーだった場所は小さなお手洗いになってます。二階は4部屋、今は俺一人だから暗室に一つ潰してて、後一部屋は機材部屋で、もう一部屋は空っぽで、裏庭に向かってある部屋を寝室に使ってます。森がすぐ後ろにあるから、鳥の鳴き声がよく響いて心地がいいです。冬で、雪で、静かな世界に、それでも声を上げる生き物が存在していて、美しいなって思います。一人じゃないって、語りかけてくれるような声に、いつも救われてます」
根津さんの言葉に、私はきっと誰よりも同調出来た。両親が他界してから、この世界に一人になったと感じた時期があった。だが、裏庭で鳴く鳥の声、ミッドナイトの甘えた声に「大丈夫。一人じゃないから」と言って貰えている気がしていた。自然は、言葉で語らずとも、自分勝手に生きる人間を包み込む寛大さを備えている。安心して、生きて、明日には太陽をゆっくり連れて帰ってくるから、そう語りかけてくれる。その安心感に支えられ、今日を過ごせている私には身に沁みる言葉だった。
「私も同じです。特に冬は長いですからね」
「そうですね。でも…あの声は、誰かを呼んでいる声にも聞こえます」
「そうですね。家族か友達か恋人か…春…を呼んでるのかもしれないですね?」
「春…もうすぐ春が来そうですね」
「そうだと良いんですけど、今年は積雪量が通常よりも多いし、どうなるかな?春になったら裏庭に出てお茶も出来ますね。是非いらして下さいね」
「…はい」
根津さんの予測が当たったように、積雪量が少しずつ少しずつ減って行き、初めて雪の降らなかった週末を迎えると、ふと庭のスノウマンのことを思い出した。時々確認していたが、ずっと同じ姿勢でこちらをニコニコして見ているスノウマンを、ずっと根津さんに見せてあげるのを忘れていた事に気がつき、今日来たら見せたいと思った。少しだけ日が出て、スノウマンの形が少しだけ変化して来た気がしたその日、だが根津さんは来なかった。毎週来ていたその足取りが消えたのは、その週末からだった。元々忙しく海外を渡り歩いている人なので、何処かの国に仕事で出掛けたのだろうと思い、2週間ほど会わなくなっても心配することはなかった。だが、雪が溶け始め、庭のスノウマンの顔から人参の鼻が傾き始めた頃、初めて根津さんの家に向かった。門から家までの道は全く雪かきがされていなく、誰もいないのは一目瞭然だった。それが分かったので、家までは行かなかった。まだ、海外にいるに違いない。家に引き返すと、少し心細くなった。毎週会っていた新しい隣人は、年間の半分は家にはいない。たまたま、3ヶ月、雪の多かったその時期だけここに居ただけ。それでも、ここを拠点にして生活すると決めている人だから、花が咲き乱れる時期には戻ってくるであろう。その時、お庭でお茶をしながら何処に撮影に行っていたのか話を聞きたい。そういう期待を胸に抱きながら、静かに春を待った。
根津さんが訪れなくなって2ヶ月が経った。雪は消え、裏庭のスノウマンもとうに溶けて消えてしまった。でも、消える前にその体から小さなスノウマンを作り、冷凍庫に移した。なんとなく、恋しくなってしまいそうで、子供じみたことをしている自覚はあったが、消えて欲しくなかった。そのスノウマンのサイズに合わなくなった目のボタンと同じ色の小さなボタンを顔に埋め、冷凍庫の中で静かに生息するスノウマンと春を迎えた。
前庭にクロッカスが顔を出し、根津さんの家の前庭にもクロッカスが咲いていたので、なんとなく週末にチョコとパンを持って訪れた。初めて私から家のドアをノックしたが、返事はなかった。家の扉の下を見ると、多くの郵便物が挟まっていたが、全て広告で根津さん宛の郵便物はないように見えた。人の家だが、このままにしておくと泥棒が入るかもしれないと思い、ドアの下からそれを引き抜くと、扉が開いた。玄関の扉はロックが掛かっていなかった。
帰って来ている。胸が躍り、思わず扉を押し中に向かって「根津さん?」と声をかけたが返事はない。人の家に勝手に入るわけには行かないが、この広告の束をどうにかした方が良いかもしれないと声を掛けてから帰ろうと思い、もう一度名前を呼んだ。だが、返事はなかった。
玄関で暫く立ち尽くしていたが、内扉の横にあるガラス窓から家の中の様子がはっきり見えた時、息をするのを一瞬忘れた。中は、空き家になってから誰かが住んだ気配などないぐらい、荒れていた。震える手でその扉を押してみると、埃が舞った。喉の奥に何かが張り付いた。怖い。そう感じた瞬間、足元に置きっぱなしのWelcomeと書いてあるマットの上に、カードが一枚落ちていた。それを拾うと、綺麗な文字で記してあった。
<次は君が僕を見つけて>
カードの裏は何処かで見たことのある街の写真だった。異国の街。自然豊かな山と森に囲まれた、絵本の中のような街。もう一度カードをひっくり返すと、メッセージの下に小さなサインがしてあった。Neige。その横にはスノウマンの可愛いイラストがあった。右目が青、左目が緑。カードを手に、家の中をもう一度見ると、家の中から冷たい空気がそっと私の肌を撫でる様に流れてきた。凍てつく様な温度なのに、暖かいその感覚に、胸元にずっと付けていたネックレスを握りしめた。
これは、貴方?君は、私?
首筋を流れる血管がドクドクと活動するのを感じ目を閉じ、深呼吸をした。小さな世界、私の世界、ここが私の生きる世界、ここに私が居ないと、貴方の戻ってくる場所はない。ずっと待ってる、そういう約束をした。でも、貴方は戻っては来なかった。私は約束を守っていただけ。臆病だから動けなかったんじゃない。違う。これは私のいつもの妄想だ。落ち着いて。何も変わらない。間違ってない。私を見つけるのは簡単なのに、貴方は見つけてくれなかった。
頭に血が昇るのを感じた。そうだ。思い出した。私は待ってた。ずっと、手放した恋を、ここで待っていた。その年月が長すぎて、酷い幻想を見ているに違いない。目を覚まさないと。息を吸って、吐いて、目を開けて現実を見て。私は50歳になる、おばさんだから。自分の内なる声に目を見開くと、手にあるカードの写真の下に、小さなメッセージが書いてあるのが目に入った。
<君が見つけて>
頬を伝う生ぬるい涙に、気が付いたら家に向かって走っていた。違う。言い訳、人のせい、諦める癖、臆病の理由は全部私の中で生まれて私を形成していた。私にはそれを変える力があるのに、私は自分を信じられなかった。自分を信じる力がないと思い込んでいた。怖がりだと思い込んでいた。特別なことは何も出来ないと思い込んでいた。魔法は存在しないと思い込んで、幻想の世界に浸るのは現実逃避で自分に見合った世界はここだけだと、自分で自分を型にはめ込んで、逃げていた。貴方から逃げていた。確約のない将来を夢見るぐらいなら、自分で諦めた方が傷つかないで済む。そうやって私は、逃げて来た。でも、違う。私が貴方を見つけられると、貴方は信じて待っている。世界の何処かで私を待っている。私を信じて、きっと待っている。年齢は逃げる言い訳にはならない。だって、きっと貴方は待ち続ける。私がおばあちゃんになっても、きっと待ち続ける。私を見つける術を知ってるのに、私に見つけて欲しいと言ってくれるのは、私にそれが出来ると信じてるから。
何年かぶりに旅行鞄に荷物を詰め、ミッドナイトを旅行用移動鞄に入れ、声を掛けた。
「ごめんね、ミッドナイト。少しだけ、私の妄想と幻想に付き合って。ちゃんとここに戻ってくるから」
戻るのはいつでも出来る。私の家は無くならない。でも、ここに戻るには確かめないといけないことがある。自分を信じる力、自分を信じてくれる人を信じる力。両親が蒔いた私という種が、ここで根を張るには足りないものがある。まだ、ここで終われない。
家を出る前、冷凍庫の中を覗くと、そこにはもうスノウマンは居なかった。溶けてしまったのか、それとも私より一足先にあの人を見つけに出掛けたのか。春は、来た。
鞄の中にしまった革張りの本、カードにある写真の街に向かう電車の中で再度開く。春を謳う花々と木々、鳥の囀りが車窓の枠に収まったオーケストラの様に豪華に華やぐ中、恋をした少女は電車に乗っていた。そうだ、あの日から、私は一ページもこの本を読んでいなかった。根津さんと出会ってから、一度も本を読まなくなっていた。これは、私の話。読んでいる間に文字が足されていく、私の話。この少女はきっと出会う。電車を乗り継ぎ、幾つもの街を通り過ぎ、この美しい山脈に囲まれた街に辿り着き、大事な人に出逢う。そう、右目が青、左目が緑のあの人に。
ーーーーーー
「遠かった?」
思ったよりは、近かったよ。
ーFinー
優さん
素敵なお話、ありがとうございました。
優しくて、不思議で、でも何だか心が暖かくなって、根津さんに逢えるまで頑張ってね、私もなんか頑張ろうって、思えるような。
情景が浮かぶような、そして短編映画を観ているような言葉がステキでした♥️
aquaさん🥰
素敵な感想、有難うございます✨とっても嬉しいです😘
雪が降って、雪兎を冷凍庫にチビが入れてたの見たら、何か書きたくなった次第です😅歩きながら妄想、書く、暖炉の前で妄想、書く、の妄想暴走的発想、若干疾走気味ですが、チョロチョロまた作品上げてきます🙏