Short Story : 冬の記憶

 ドアノブに手をかけると、ドアノブは氷のように冷えていた。玄関の温度が、いつもより低い。肌に感じる鋭利な冷たさに身震いをしドアを開けると、予想通り根津さんが立っていた。

「すみません、度々。あの、さっきの薪の御礼にこれ、朝焼いたからどうぞ」

 根津さんが手に持っていたのは、カンパーニュだった。焼いたというのは、自分でパンを焼いたという事だろうか?それを見て思わず聞くと、根津さんは穏やかな声で答えた。

「趣味で。その、ベイカリーと同じレベルだと思われると申し訳ないのですが、もしご迷惑じゃなければ」

「嬉しいです。すみません、わざわざ。あ…あの、少し寄って行きますか?珈琲淹れますよ?」

「え?いや、急に来てそれは申し訳ないですし」

 突然人を家の中に誘うのは流石に失礼だったかもしれないと思い、強引ですみませんと頭を下げると、根津さんもすかさず頭を下げて言った。

「いや、嬉しいんです、本当は!でも、お忙しい中突然来てお言葉に甘えて伺うのも、非常識ではないかと思いまして」

「あはは、本当に遠慮でそう言ってくださってるなら、寄って行ってください。週末ですし、する事も特にないので、根津さんにお時間があるならどうぞ」

 玄関の内扉を開け中に入るように促すと、根津さんは頭を下げてからマフラーとマスクを取った。瞳はサングラスと眉毛の影になりよく見えないが、帽子を取ると綺麗な金色の長めの髪は、綺麗なカールで頭上の電気に照らされクレームブリュレのカラメルのように見えた。コートから雪を払い、玄関のペグに掛けると、少し頭を下げ低めの内扉の枠を体を屈めて潜り、中にある椅子に座ると濡れた靴を脱いだ。大きな足に入るスリッパがあるか不安になりスリッパを見ると、根津さんは笑った。

「もし気にならなければ、厚めの靴下履いてるので、このまま上がっても大丈夫ですか?」

「すみません、小さなスリッパしかなくて。寒かったら言ってくださいね」

「暖かすぎるぐらい暖かいです。有難う御座います。ンンン、やっぱりいい匂い」

 暖炉の中の薪ストーブの上で煮込んでいたシチューのことを思い出し、「今晩食べようと思って」と答えると、根津さんが大きな真っ赤な口を横に開き嬉しそうに答えた。

「そうかなと思って、パン持って来たんです。凄くいい匂いがしたから」

「あ、じゃあ食べて行かれますか?」

 お昼に差し掛かる、そんな時間の筈なのに夕飯のお誘いをしてしまい、思わず口をあっと手で塞いで「まだお昼ですね」と言うと、根津さんが笑った。

「お昼にしては少し遅いですけど、お昼まだですか?」

 その言葉に腕時計を確認すると、既に4時になっていた。転寝していた時間が想像以上に長かったことに気が付き、驚く以上に丁度いいと思えた。

「ここの冬って外の光だと時間の感覚掴めなくて、こんな時間になってたの全然気が付かなくて。じゃあ少し珈琲飲んだ後に、お夕飯で食べて行かれますか?ご迷惑でなければ」

「こちらこそ本当にご迷惑じゃないですか?」

「どうせ一人で食べる予定でしたので、もしよし良かったら」

「有難う御座います。何かすみません、それ催促しに来たみたいでちょっと恥ずかしいです」

 照れ笑いをする根津さんに、何故か私も恥ずかしくなってしまい、小さな会釈をしてからリビングのソファに促すと、根津さんは興味津々な様子で部屋の中を見渡してから私を見た。ダイニングリビングの大きな窓から鈍い光がテーブルを反射し、根津さんの顔を綺麗に浮き上がらせる。サングラスで目の色までは見えないが、大きな瞳がキラキラして見えた。優しそうな瞳だと思った。

「あの、そこの写真は、宇仁さんのご両親ですか?」

  暖炉の上を指差す根津さんに、小さく頷いた。暖炉の枠に唯一置いてある写真は、両親の結婚式の時の写真だ。モノクロで、質素ながらエレガントなドレスを身に纏い、幸せな笑顔を讃える二人の写真は、子供の頃から一番好きだった写真だ。そのフォトフレームを手に取り、根津さんの前に差し出しそれに答えた。

「両親の結婚式の写真です。私が一番好きな写真で、家族皆の写真よりこっちの写真を飾っておきたくて。他の写真は全てアルバムにしまってあります」

「…ご両親は、ここら辺にお住まいですか?」

「いいえ、二人とも他界しました。ここは代々受け継がれて来た家で、今は私と猫のミッドナイト、一人と一匹暮らしです」

「すみません、余計なこと聞いて」

「いいえ、ご近所さんは皆知っていることですから。根津さんのご家族は?って聞いても大丈夫ですか?」

 久々にお客様の珈琲カップを出し、それにそっとコーヒーを注ぎながら聞くと、私の両親の写真を眺めながら根津さんは静かに答えた。

「俺の両親も他界してます。兄弟はいないし、従兄弟も会った事もないので、家族らしい家族はいません。俺も猫、飼おうかな?」

「良いですよ、猫。でも、一度一緒に暮らすと、一人ではいられなくなります。それに旅行も出来なくなりますよ?」

「あー、それが問題ですね。俺、仕事柄家を空けることが多いので」

「お仕事…この街でされるのではないんですか?」

「いいえ、フリーランスのフォトグラファーで、住む場所はそこまで重要じゃなくて。一年の半分は森とか山とか海とかサバンナとかにいます。宇仁さんは?」

「この街の市役所勤めです。ここで生まれて、ここで育って、ここで仕事して、ここが私の世界です。根津さんには窮屈に響くかもしれませんね?」

 淹れた珈琲をコーヒーテーブルに置くと、根津さんは小さくお辞儀をして一口含み唸った。

「ンンン、美味しい。俺は、羨ましいです、宇仁さん」

「え?私?世界を旅してる方に羨ましがられるような事、何もないですよ?」

「いや、俺は故郷がないから。いつも引っ越しばかりして来て、親も転勤族で定住先がなかったから、帰れる場所ないんです。だから、この街を撮影で通りかかった時、ここを自分の定住地にしたいなって思ってあの家買ったんです。一人にしては大きな家だけど、この街を囲む森も川も山も全て美しいし、静かで優しい。情報も物も人も増えたら増えるだけ頭が混乱するから、この絵本から出て来たような街を拠点に、仕事したいなと思って。って言っても、新参者なので薪を切らすという失態犯してる訳ですけど」

「あはは、おかげで私は美味しそうなパンをご馳走になれたから、ラッキーでした」

 根津さんが以前口にした言葉を真似ると、根津さんは明るく笑った。

「あはは。宇仁さん、この街、好きですか?」

「はい、とっても。好き過ぎて足に根が張って、動けなくなっちゃってます。困った物ですね?」

 居心地の良さ、目を瞑っても歩けるぐらい熟知したこの地で息する事に慣れて、今更冒険は出来ない。根津さんが羨ましい。でも、羨ましいと思う根津さんが私を羨ましいと言う。なんだかない物ねだりで可笑しくなりクスッと笑うと、根津さんも笑った。

「ない物ねだり、隣の芝生、ですかね?俺、もう50になるからそろそろ腰を据えて先のこと見ないとなってのもあって、今更のマイホーム購入。中年クライシス、にしてはちょっと遅かったかな?あはは」

「あはは、私も来年で50です。同級生ですかね?」

「本当ですか?いや、宇仁さん10位は俺より下かと思ってました、ちょっと嬉しいです、同級生」

「お世辞でも有難う御座います。私もご近所さんに同級生はいないので、嬉しいです」

 同級生の友達は、皆違う街にお嫁に行ってしまった。連絡は取っているが、ここ数年、特にミッドナイトを家に迎えてから実際に会うことは殆どなくなってしまった。初めて会う同級生、何処かの町で誰かに大事にされ、誰かに恋をし、誰かを愛して、世界を彷徨って来て同級生。そして今は私のお向かいさん。不思議な気がした。出したコーヒーの横に、街のチョコレート専門店で購入したボンボンを数個載せて出すと、根津さんがまた鼻を少し動かして言った。

「ンンン、甘い香り。チョコ、この街の店ですか?」

「はい、唯一あるチョコレートの専門店で、私は世界一美味しいと思ってます。根津さんは甘いもの、お好きですか?」

「大好物です。このオレンジマーブルのボンボンは何が入ってますか?」

「これはパッションフルーツとマンゴーです。私のイチオシの一つです。食べてみて下さい」

 冬の長いこの地で、このチョコを口に含むと常夏の国の木々や鳥たちの声が聞こえる気がした。明るい日差しを浴びて白い歯を見せ笑みを交わす若い恋人たち、声をあげてはしゃぐ小さな子供たち、それを見守る優しい年配者。その想像の世界で暫く時間が潰せるぐらい、この一つのチョコには小さな世界が詰まっている。そう伝えて大きな根津さんの手のひらに乗せると、根津さんは大事そうにそれを口に含んだ。毛糸のように真っ赤で大きな唇を小さく開いて、また小さく唸った。

「ンンン、撮影で行った島、思い出します。海の色が本当に美しかった。グラデーション、一色じゃなくて青と緑と層になって深くなって折り重なって、全てを包む色。それに訪問者だったからかもしれないけど、皆が笑顔で皆が生きてる事を謳歌してるように感じた島でした」

「どうしてそこに家を購入しようと思わなかったんですか?」

 雪に何ヶ月も埋もれるこの地より、夢のあるような見た事のない島を想像しそう聞くと、根津さんは照れ臭そうに答えた。

「俺の肌は太陽光に弱いんです、真っ白でしょ?訪問ぐらいなら良いけど、住むのはちょっと」

 思わず一緒に笑ってしまった。確かに、根津さんの肌は雪のように白い。その肌を眺めながら、私も同じチョコを口に含み、目を瞑る。根津さんが訪れたと言う島を想像しながら、その強い日差しを想像しながら、口の中で溶けていく南国のフルーツを包むチョコレートに喉の奥を擽ぐられ、小さな至福の溜息が漏れた。

 小皿に出したチョコは、二人ですぐに食べてしまった。一つずつ、感想を言い合いながら、根津さんの旅してきた色々な地の話を聞きながら。お皿が空になると、暖炉がぱちっと音を立てた。ミッドナイトがその音に、みゃおと反応し、根津さんは優しい声で笑った。家の中は、いつの間にか根津さんの額から汗が一滴、垂れるぐらい温まっていた。

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「Short Story : 冬の記憶」への2件のフィードバック

  1. 優さん
    素敵なお話、ありがとうございました。
    優しくて、不思議で、でも何だか心が暖かくなって、根津さんに逢えるまで頑張ってね、私もなんか頑張ろうって、思えるような。
    情景が浮かぶような、そして短編映画を観ているような言葉がステキでした♥️

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    1. aquaさん🥰
      素敵な感想、有難うございます✨とっても嬉しいです😘
      雪が降って、雪兎を冷凍庫にチビが入れてたの見たら、何か書きたくなった次第です😅歩きながら妄想、書く、暖炉の前で妄想、書く、の妄想暴走的発想、若干疾走気味ですが、チョロチョロまた作品上げてきます🙏

      +1

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