Short Story : 冬の記憶

 コツ。コツ。コッツ。

 窓の木枠の上で鳥がホッピングでもしているような小さな音。静かに目を開けると、時計はいつも通り朝の6時を指していた。外は真夜中のように暗い。小さく足の指先まで伸ばすと、ミッドナイトが横で面倒臭そうにこちらを見てから、また丸くなった。カーテンを開けても外は暗い。朝、部屋のカーテンを開ける意味はない。それでも顔を洗い、ガウンを羽織って窓辺に近づくと、少しだけカーテンの隙間から外を覗いた。暗がりでも分かる雪灯。朝の月明かりは静かだがお喋りだ。一晩で新たに積もった雪の上を、風がサラサラと走り、鈍い街灯に照らされダイヤモンドのように輝く。それを見て、自分の胸元を触る。つけたまま寝たネックレスは、まだ胸元で小さく輝いている。その石を指先で弄りながら、輝き去っていく風に念じた。私は、まだ、ここに居ます。見つけて下さい。

 自分に笑そうになり、カーテンを閉め着替える。今日は土曜日。仕事はない。朝6時に起きる理由もない。でも、予定もない。素敵な夢を昨日は見たから、美味しいコーヒーを淹れて美しい愛の詩を朝から読もう。情熱的なジャズを聴きながら、暖炉の前で一日過ごそう。お腹が空いたら、昨日買って置いたベイカリーで初めて見かけた木の実が沢山入ってるケーキを食べよう。もし晴れたら、スノウマンを久々に作ってみても良いかも知れない。気分は明るい。

 いつも通りの静かな朝、気持ちよく淹れた珈琲はいつもより香りが豊かに感じる。モカポットからお気に入りのカップに注ぐ間、その香りに胸がときめいた。今日は、私が物語の主人公になれる日。そういう日が、時々あって、全てが上手くいくような気がして、その自信だけでお料理も珈琲もいつも以上に上出来で、髪の毛のセットも洋服選びも普段より少し素敵に出来る。朝着替えた服を鏡で見直し、少し上着を見直す。クリーム色のドレスの上に着たカーディガンを、昨年編んだ真っ赤なカーディガンに変えた。部屋履きの皮のスリッパも、赤に変えた。一つにまとめていた髪に、カーディガンの余りで編んだヘアバンドを足した。年甲斐にもない少女のような私、誰かに会うわけでもない今日ぐらい、悪くないかも知れない。鏡の自分を見て、口にも色を足す。中々、可愛いわよ、って自分に言うと自分で照れ笑い。浮き足立ち、スキップでキッチンに戻り、少し温度の下がったコーヒーを啜ると至福の溜息が漏れる。美味しい。ベイカリーで買ったサワードウブレッドをトーストし、いつもより多めにバターを乗せる。今日は特別デイだから、それにシナモンシュガーも振ってみる。洗ったブルーベリーとラズベリー、それにギリシャヨーグルトを足してカップに入れ、ダイニングテーブルに全て揃えると、ミッドナイトが見計らったようにやって来た。

ミャオ

「分かってるわよ。貴方のは、ちゃんといつものお皿に入れてあるから。これはダメよ?」

 ミッドナイトのお皿は、ダイニングテーブルの横の定位置。ミッドナイトはゆっくりそこに向かって歩くと、食べ始める前に私を見た。「お食べ。私も頂きます。今日はきっと良い日になるわよ?貴方がお喋り始める日かも知れないわね?」ミッドナイトはそれに無関心を装ったように静かに食事を始めた。私はそれを見届けてからパンを口に含んだ。甘い、シナモンとバターの染み込んだパンの味。思わず溢れる至福の唸り声。美味しい。今日は、朝から全部美味しい。嬉しくなって瞑っていた目を開けると、暖炉の火が一瞬ボッと強く燃えたように見えた。魔女が魔法を掛けたよう。夜は、暖炉の上でビーフシチューを煮込もう。朝の内に全て準備したら、後は好きなように時間を使える。洗濯物は明日まとめてしよう。

パンをいつもより味わって食べ、ヨーグルトとフルーツも食べ終え、コーヒーカップも空になるとキッチンに舞い戻った。食洗機はないから、ゴム手袋をしてお湯で食器を洗うと、すぐに夕飯のシチューの下拵えを始める。一度ロッキングチェアに座ると立つのが辛くなるので、勢い良くお料理をし始めると、家の中は既に食事の香りが漂い始めた。昨日の残りのサーモンのシチューをお昼に食べて、夜はビーフシチュー。毎日スープとパンがあれば、これ以上ないご馳走。芽キャベツを綺麗にし、鍋に入れて他の野菜と一緒に炒めていると、妙にお腹が空いて仕方がなくなり、戸棚からダークチョコを一切れ出し口に入れる。スキレットで炒めたお肉を鍋に足し、お鍋の中にお水を入れると、それを暖炉のストーブの上に置いた。ストーブの上に置いた途端、何故か更にお腹が空いて、キッチンに戻ってベイカリーでケーキと一緒に買ったガレットを一枚、口に放り込むと紅茶を淹れた。

 紅茶を少し冷ましている間、本棚に行き今日読む本を探す。愛を謳う詩集を探していると、一冊の本で手が止まった。見たことがない本。母か父が読んだ本だろうか?この本棚にある本は、一度のみならず、何度も読んでいる筈だが、記憶にない革張りの背表紙には金の刺繍で文字が施してある。題名は『雪物語』スノウマンが出てくる北国の話を昨日読んだので、今日も同じような内容ではつまらない。だが、見た記憶のない本に酷く惹かれた。本を取り出すと、黄ばんだ本のページが歴史を物語るようで心が更に躍った。今日、この本の存在に気がついたのは、運命かも知れない。

 少しだけ温度が適温に近づいた紅茶をコーヒーテーブルに乗せ、食事で落ちた口紅を少し直し、古本のいい匂いがするその大きめな本を開いた。私が主人公になれる瞬間、これから何かが始まるドキドキで分厚い表紙を開くと、1枚目にある薄い紙に手書きのメッセージが記してあった。

<君も僕を見つけられますように>

 今朝の自分の独り言を思い出し、少し頬が熱くなる。父が、母に贈った本だろうか?二人の間で優しく燃えていた愛の灯火、その結晶の私。この家、この家族を守ってきた彼らの足跡を、この本が教えてくれるのだろうか?メッセージを指先でなぞり、不思議な感覚に陥る。この字は、あの人の字にも何処か似ている。胸元のダイヤを触ると、一つ深呼吸。私には、もう貴方を見つけられる力はないわ。心の中で勝手に答えてから次のページを開く。

 物語は、この家のように郊外の平屋で暮らす女の子の話だった。朝からかけ続けていたジャズも、部屋に掛けてある時計の秒針も、いつの間にか何も耳に入らないほど、本の世界に没頭していた。少女は、私の幼い頃のよう。私もそうだった。想像力と夢があれば、世界は開けると信じて毎日笑って過ごしていた。雪国の暗さなど、全く感じないぐらいに毎日が楽しかった。何か特別なことが毎日あったわけでもないのに、胸が希望で一杯だった。そうだ、これは昔の私だ。勝手に自分を主人公と重ね、のめり込んだ私が、朝から余分に摂取した糖分で眠気に襲われうっかり本を片手に眠ってしまっていた事に気がついたのは、暖炉の火が消え少しだけ部屋が寒くなっていたからだ。

 一瞬の身震いで目が覚めた。本の中の私が恋に溺れる場面で、迂闊にも眠ってしまったので、慌てて数ページ前から読み直そうと思いページを捲っていると、玄関のベルが鳴った。余りに珍しい音で、一瞬思考回路が停止してしまったが、急いで玄関に向かった。

「はい、どちら様ですか?」

「…突然すみません。あの、薪を切らして暖炉の火がつけられません。少しだけ薪を分けて頂けませんか?」

「勿論。あの、でもお名前は?」

「あ、数日前に向かいの家に越してきた根津です」

 お向かいの家は空き家になってかなり久しいが、確かに最近売却されたと聞いていたので、すぐにドアを開けた。ドアマットの上で雪を払って立っていた根津さんは、全身防寒着で顔は見えなかったが、2メートル近くある長身の大柄な男性で、昨日読んだ本の中のスノウマンのようだと思った。

「初めまして。宇仁です。寒いですから玄関入ってお待ち下さい」

 玄関に取り敢えず入って貰うと、私の言葉に気まずそうに根津さんは頭を下げた。

「すみません、初めましてですね、本当。越してきてバタバタで、ご挨拶もせずに失礼しました」

「いいえ、私も普段余り家に居ませんので。どのぐらい持って行かれますか?持てるだけ持って行かれますか?」

 薪を収納しているクローゼットを開けながら聞くと、根津さんは申し訳なさそうに答えた。

「出来たら10本ぐらい頂けると助かります。後でお返しします、買って来たら」

「大丈夫ですよ。沢山あるので。このバスケットに入れて行きますか?」

 いつも薪を庭から持ってくるのに使っているバスケットを取り出し見せると、根津さんは小さく頷いた。薪をそのバスケットに入れながら、何となく沈黙するのも失礼かと思い話をし続けた。

「どうですか?お家、落ち着かれましたか?」

「あ、はい、大分。一人なので大した荷物もなかったですし」

「そうですか。元々こちらの方でお暮らしでしたか?」

 この街自体は小さいが、州としては小さくはないのでそう聞くと、根津さんは静かに答えた。

「いいえ、飛行機乗る距離で暮らしていました。ここら辺は全くの新参者です」

「あら、じゃあ大変ですね?ここは雪が他の地域より積もりますから、お買い物余計にしていないと、車も出せなくなりますよ。いつも余計にお買い物された方がいいですよ」

「そうみたいですね。こちらに来るのも、雪掻きしながら来ましたけど、帰りに少し車道作ろうと思ってます。宇仁さんのガラージの前もついでに道作っておきますね」

「有難うございます、でも暫く車を出す予定はないので大丈夫です」

 薪をバスケットに入れている間、ベーカリーで買ったケーキのことを思い出し、少し待って貰いキッチンまでケーキを取りに行った。余計に買っておいたケーキをナプキンに包み小さな紙袋に入れると、薪のバスケットと一緒渡した。

「はい。こっちはおまけです。ボデガの横にある小さなベイカリー、凄く美味しいのご存知ですか?」

「あ、いえ、まだちょっと街の散策済んでなくて」

「そうですか。これ、そこで買えるケーキです。少しですけど」

「え?いや、悪いです、折角買っていらしたもの。あのこれは大丈夫です、ほんと」

「木の実のアレルギーとかなければ、是非。少し多めに買って来たので」

 新しいケーキやお菓子が売っていると、いつも少し多めに買ってしまう。胃袋の大きさよりも目がそれを欲してしまう悪い癖だ。それを初めて会ったご近所さんに押し付けるのはどうかと思ったが、きっと美味しいに違いないので突き返された袋を大きなその手にそっと戻すと、根津さんはマスクとメガネの隙間から見える目尻に皺を寄せ、明るい声で礼を述べた。

「有難うございます。薪、切らしててラッキーでした。木の実、大好物なんです。嬉しいです」

「良かった。帰り道もお気を付けて」

 根津さんは大きなスコップと薪の入ったバスケットにケーキの入った紙袋を抱え、来た道をゆっくりとした足取りで引き返した。少しだけその背中を見送ると、玄関を閉めた。そして、玄関を閉めた後に気がついた。今日の自分の服装。玄関にあった鏡に映る自分を見て、浮き足だったような少女のような選択をした事を恥ずかしく思った。でも、口の上に乗った紅色のお化粧が、今日の主人公は私だと言ってくれているようで、小さな深呼吸をした後に自分に向かって微笑んだ。きっと今日はこれで大丈夫。一人で食べる予定だったケーキ、お向かいの根津さんも今日きっと食べる。少しだけ、誰かと食べている気持ちになれる。それが嬉しかった。

 読んでいた本をまた読もうと思ったが、席を立ったついでにシチューの様子を覗き、少しだけ味見をして感じた。やっぱり、少しだけ味が遠い。でも、今塩味を足さずに食べる時まで待とうと思い、そのまま蓋をした。暖炉の火がぱちっと弾け、窓の外に目をやると、雪の世界の中に何か違和感を覚えた。窓の外に何かが立っている。そう感じ、目を凝らしながらいつもの窓から庭を睨むと、そこには背の高いスノウマンが立っていた。庭の雪掻きなどしないので、庭には常時雪が積もっているが、その雪が綺麗にこのスノウマンに使われたのが分かるほど、庭の雪は減っていた。朝見た時にはなかった気がしたが、気のせいだろうか?近所に住んでいる人は人数が少ないので、皆顔見知りだが、こんな事をするような人はいない。皆ご高齢者か、赤ちゃん連れの家族で、それぞれの庭が大きいのでわざわざ人の庭に来てスノウマンを作る必要はない。

 急に昨日読んだ本を思い出し、コートを羽織り、長靴を履いて外に出た。スノウマンが、父ぐらいの背丈か確かめたくなったからだ。こちらを向いているスノウマンに近づくと、その背丈は私の記憶している父よりも大分高く、さっき薪を取りに来た根津さんサイズだと思った。

「貴方は何処から来たの?」

 答えてくれるわけもないスノウマンに声を掛けると、鳥が庭の木から飛び去る羽音が響き渡った。スノウマンに顔はない。勿体無いと思い、キッチンに戻り人参と裁縫箱から大きめの色違いのボタンに、太めの毛糸を少し取り出し、仮装用のウィッグも持って庭に戻った。

「ごめんなさいね、同じ色のボタンがなくて。右目は青、左目は緑だけどちゃんと同じ大きさよ?」

 鼻の位置ににんじんを刺し、口を太めの赤い毛糸で作ると、スノウマンは大きな笑顔で私を見下ろした。木の実のケーキを受け取った時の根津さんのようだと思い笑うと、ミッドナイトが家の中でミャオと鳴いているのが聞こえ、最後に金色の巻き髪ウィッグをスノウマンの頭に乗せ、また家の中に戻った。

 キッチンで雪を叩いていると、ドアをノックされる音が響いた。玄関に慌てて向かうと、先ほど見た根津さんサイズの影がドアのステンドグラスに映し出されていた。

「Short Story : 冬の記憶」への2件のフィードバック

  1. 優さん
    素敵なお話、ありがとうございました。
    優しくて、不思議で、でも何だか心が暖かくなって、根津さんに逢えるまで頑張ってね、私もなんか頑張ろうって、思えるような。
    情景が浮かぶような、そして短編映画を観ているような言葉がステキでした♥️

    1. aquaさん🥰
      素敵な感想、有難うございます✨とっても嬉しいです😘
      雪が降って、雪兎を冷凍庫にチビが入れてたの見たら、何か書きたくなった次第です😅歩きながら妄想、書く、暖炉の前で妄想、書く、の妄想暴走的発想、若干疾走気味ですが、チョロチョロまた作品上げてきます🙏

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