北国の冬は長い。この国で生まれ、この国で育ち、この国から出る事なく、気が付いたら50に近づいていた。若い頃に幾度か経験した恋愛。夢中になった相手とは、雪解けと共にその情熱も消え、仕事と猫とこの親が残してくれた赤い屋根の平屋が私の今の世界になっていた。家の中の暖炉は毎年手入れをしているので、唯一この家の中で私がホッとする場所として長い冬を支えてくれた。静かな世界、仕事は市役所の事務仕事、趣味は読書、時々親が残したジャズのレコードを蓄音機でかけること、それ以外に何もない。だが、不満もない。時々テレビで映画を見たり、仕事先の友達が家を訪れたり。以前は数年に一度海外に行くこともあったが、猫を家に迎え入れてから、そう言う機会は無くなった。遠くで暮らす同級生の友人の子供が受験生、知り合いには孫が出来る、そう言う年齢に自分が達していることが不思議で堪らない。この窓から見える景色は、私が20代の頃から大して変わっていないのに、世界は大きく変わり、私は歳だけ数字が膨れ上がっていた。その事実以外、静寂そのもの。何も望まない、今日を穏やかに生きられたら、それで良い。
暖炉の上で沸かしたお湯で淹れたコーヒーを口にし、読みかけの本を開く。猫が甘えた声で鳴く。外からは、何も聞こえない。
「”…僕は窓に視線を向け、息を呑んだ。母が昨日作っていたスノーマンが、僕の父より背の高い完成形で、窓からにこやかにこちらを覗いていたからだ…”素敵でしょうね、あの窓からのっぽのスノーマンがこちらを見て微笑んでいたら、ねぇ、ミッドナイト?」
黒猫のミッドナイトに本を読みながら話し掛けると、ミッドナイトは優しい声でミャアと返事をした。
長い冬の世界を眩しくする白い雪。子供の頃は作ったスノーマン、いつから作るのを辞めたのだろうか?寒いのが苦手な私の為に、幼い頃は父がよく手伝ってくれた。その父が他界し、母も優しく息を引き取り、一人になった私の家から見える景色からスノーマンが消えて久しい。本の中の主人公、「僕」はまだ幼い。私にもあったそう言う時間、過去の自分をなぞるような気持ちで文字を追う指を動かす。そう、世界に夢しかなかった子供の頃、希望しかなかった若い頃、現実と夢の差に落胆したあの頃、私の中でブレーキが掛かった瞬間、今でも時々思い出す。あの時、私が思い切れば、何かが変わっていただろうか?
「僕」の見る新鮮で優しい世界、親の優しい眼差し、子供の好奇心旺盛な視線、本の世界は美しい。暖炉からパチっと音が響き、自分が時間を忘れ読書に夢中になっていたことに気がつく。外は、3時半過ぎで既に暗くなっていた。そう、長い冬は日が短い。祖父母から代々受け継いだロッキングチェアから立ち上がると、ミッドナイトが一瞬こちらを見て、また丸くなる。私の世界、小さなこの家で淡々と過ごす日々、不満はないが、後悔はないだろうか?
夕飯はサーモンのシチュー。母がよく作ってくれたクリームの濃厚なその味わいを、誰かと分かち合うことなく一人で食す。そう、この味。少しだけ塩を足すと、母の声が聞こえてくるよう。
「貴方は怖がり。もう少しお塩を入れても大丈夫よ、怖がらないで入れてみなさい」
臆病で慎重な私のお料理は、いつも少しだけ味が遠い。後で少しずつ塩を足す様子を見て、母にはもう少し思い切っても大丈夫とよく言われた。お料理には性格が出ると母は良く言っていたが、その通りなのかもしれない。何かが少しだけ、足りない私のよう。でも、そう言う味を、父は優しい味だと表現してくれた。私の味、臆病な味、優しいのかな。
飽きることなく降り積もる雪を眺めながら、静かにシチューを啜ると、ミッドナイトが足にまとわりついて一声。その声にお腹の底に流れていく温かな食事の温度が、少し上がった気がした。
深夜まで起きられなくなり、10時には就寝する私の日課が崩れることはない。今夜もいつも通り、9時半過ぎに片付けたキッチンを眺め、窓の外を眺め、暖炉の火を消し、自分のベッドルームへ移動する。私の足元を歩くミッドナイトの優雅な姿勢に、ドアに掛けてある鏡に映った自分を思わず見た。少し、猫背かも知れない。背筋を伸ばし、自分の姿をじっくり眺める。ミッドナイトが鏡越しに私を見るので、微笑むと母の声が頭の中でこだました。
「自分は誰よりも自分が人生で一番見る顔なの。毎朝毎晩、顔を洗って鏡を見るでしょ?だから、自分自身にとって心地良い状態に自分を保つ努力が大切なのよ。他の誰かに評価して貰う事を基準にしたら、きっと人の顔は皆ピカソの絵みたいになっちゃうわ。どっち向いたらいいか、全然わからなくなっちゃうからね」
母のその極端な発想に笑った自分を思い出し、もう一度鏡を見る。寝る前の私、もう少しだけ髪の毛を解かそうか。ベッドサイドテーブルにおいた櫛に手を伸ばすと、その横に置いてあったネックレスが視界に入り、手が止まった。櫛ではなく、そのネックレスを取ると、鏡の前に立ち、首に掛ける。小さな星のネックレス。
大切な人がいた。愛されていた。愛していた。だけど、夢を追う彼について行けなくなり、手放した。最後の恋、気が付いたら諦めの境地に達していて、思い出の一部になってしまったネックレス。誕生日でも、記念日でも、なんでもない日に突然プレゼントされた、小さなダイヤの光るネックレス。「一番星みたい」と言ったら、「何処にいても君が見つけられるように」と照れ臭そうに彼は笑った。彼の唇は無花果のように赤く、美しかった。
鏡の中の私、これを貰った時はまだ若くてキラキラしていた。彼は戻ってくると何処かで信じて待っていた。そんな時期があったことも、思い出になっていた。今私の胸元で光るこの輝きは変わらないのに、私は酷く変わった。鏡の中の私は、私にとって心地がいい状態だろうか?鏡の中の自分自身と暫く無言で睨めっこをしていると、ミッドナイトが一声。振り返ると、ミッドナイトの背後にある窓から、更に大粒の雪が降り始めたのが目に入り、一瞬身震いをした。今夜も、とても冷えそうだ。
寝室の電気を消したのは、きっかり10時。ネックレスをつけたまま、眠りに落ちた。足元の湯たんぽに、体の芯まで温めて貰いながら、若い頃の自分を夢で思い出しながら、変化のない明日を予知して眠った。
優さん
素敵なお話、ありがとうございました。
優しくて、不思議で、でも何だか心が暖かくなって、根津さんに逢えるまで頑張ってね、私もなんか頑張ろうって、思えるような。
情景が浮かぶような、そして短編映画を観ているような言葉がステキでした♥️
aquaさん🥰
素敵な感想、有難うございます✨とっても嬉しいです😘
雪が降って、雪兎を冷凍庫にチビが入れてたの見たら、何か書きたくなった次第です😅歩きながら妄想、書く、暖炉の前で妄想、書く、の妄想暴走的発想、若干疾走気味ですが、チョロチョロまた作品上げてきます🙏